木越城跡(きごしじょうせき)

 城の位置
 
長良川の右岸、場皿(ばっさら)の北端にある標高20mの独立した小山にあり、南北の遠望がきき、東側の山麓は長良川に落ち、西側は西根山(にしねやま)に連り要害堅固(ようがいけんご)、長良川筋の押えとしてすぐれた位置を占めている。

  現状
 
南側から山道を約200m登ると山頂に達する。この山道は城の大手(おおて)と思われ、途中に木戸跡らしい礎石(そせき)がある。木戸内はそれぞれ幅8mの細長い平地が左右に延びている。右側の平地は約30mの段をつくり、崩れた石垣が残っている。頂上の平地はかなり崩れているが南北の長さ41.5m、東西の幅11〜15mである。北側、西側は険(けわ)しい岩山で、南側には麓まで達する縦堀(たてぼり)が1本ある。

 
城の歴史
 
15世紀末に篠脇城主東元胤(とうのもとたね)が、末弟遠藤盛胤(えんどうもりたね)に長良川筋の押えとして城を構えさせたのが始まりで、以後5代約90年間遠藤氏の居城であった。天文(てんぶん)9年(1540)越前朝倉勢が篠脇城へ来攻のとき、木越城主胤縁(たねより)と弟盛数(もりかず)が主家を助けて奮戦した話は有名である。永禄(えいろく)2年(1559)東氏滅亡後、八幡遠藤の本家として栄えたが、元亀(げんき)元年(1570)信長の江州(ごうしゅう)攻めに従った胤俊は戦死、その後天正16年(1588)遠藤家は秀吉の不興(ふきょう)をこうむり、八幡城主遠藤慶隆(えんどうよしたか)は加茂郡小原(おはら)に、木越城主胤基(たねもと)は同郡犬地(いぬじ)に左遷され、木越城はやがて廃城となり、その歴史は幕を閉じた。


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