7 篠脇城跡

 ■ 城の位置
   国道156号線徳永地内から東に折れて、徳永〜寒水線を約2km入った地帯が、長く東氏の本拠地となったところで、近年開設された「古今伝授の里フィールドミュージアム」の中心地である。
   ここの「東氏記念館、和歌文学館、篠脇山荘」などの前方で、栗巣川の対岸にある全山樹木におおわれている美しい山が、標高570mの志の脇山で、この山頂に「篠脇城跡」がある。
 ■ 城の構え
   山頂に約1,000uの本丸跡、約1,500uの二の丸跡、約1,000uの腰くるわ跡があり、この3段3,500u城郭を囲んで放射線状に30本余の縦堀が彫られてある。 この縦堀は、その形が臼の目のようになっているので、通称「臼の目堀」といわれている。天文9年(1540)越前の朝倉勢が篠脇城へ来襲した時には、ときの城主常慶(つねよし)はこの独特の縦堀を利用し、寡勢を以てよく敵の大軍を迎撃し敗退させたのである。
 ■ 城の歴史
   謙倉時代、下総国の名門として聞こえた千葉氏の一族である東胤行(とうのたねゆき)は、承久の乱の戦功によって、本領香取郡東ノ庄三三郷のほかに、美濃国郡上郡山田ノ庄(現在の大和町、白鳥町・八幡町の一部)を加領され、阿千葉(現在大和町剣地内)に居城を構えて領内の統治に当たった。これが、郡上東氏の始まりである。
   阿千葉には、三代約90年間在城したが、鎌倉末期第4代氏村の時にさらに規模の大きいこの篠脇山城へ移った。その後、天文10年(1541)八幡赤谷山城へ移るまでここで山田ノ庄を治めた。
   東氏は、武人でありながら代々歌道のほまれが高く、特に第9代の城主常緑(つねより)は高名な歌人であると共に、また、すぐれた古典学者として知られ、京師文人の間に重きをなしていた。応仁の乱のとき、美濃国の守護代斎藤妙椿が篠脇城を急襲して奪取したが、常緑から10首の歌を妙椿に贈って城を返されたといううるわしい話が伝えられている。また、文明年中、連歌の大家飯尾宗祇がはるばる、常緑を訪ねて古今伝授を受けたのも、この城中であったと言われている。
 ■ 城の文化的意義
   以上述べたように、篠脇城は、中世文学に深いかかわりを持ち、しかも450余年を経た現在、往年の姿をほとんど失うことなく保存されていることは、文化史的にもきわめて意義深いものと考えられる。



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